アイのいすらいふ 

世界のいろんなことに首をつっこみながら生きてます🫐 文化・言語・日常・イスラエル・ポルトガルなど、視点多めに書いてます。 ゆるく読めてちょっと知的なブログ、週3で更新中!

「ピリピリ」はポルトガル語?アフリカから来た辛さの名前


こんにちは、アイです🫐


私は辛い食べ物が大好きで、ある日ふと気になったことがありました。
「“ピリピリ”って日本語、でもポルトガル語にも“piri-piri”ってあるよね? もしかして関係あるの?」って。

どちらも“辛さ”や“刺激”を連想させる言葉だし、音も似ている。
しかも、日本とポルトガルには江戸時代から交流がある…。これはもしや何かつながってる?と、わくわくしながら調べてみました。

するとわかったのは――見た目は似てるけど、意味も由来もまったく違う、けどもしかしたら影響が全くないわけではないかもしれない…。
それでも、このふたつの「ピリピリ」には、言葉の面白さと文化の出会いが詰まっていました(*´∀`*)

アフリカ起源の「piri-piri」

「piri-piri」は、アフリカのバントゥー語(特にモザンビークアンゴラ)で「唐辛子」を意味する言葉が語源とされています。「pili-pili」や「peri-peri」とも表記されるこの単語は、16世紀にポルトガルモザンビークを植民地化した際にポルトガル語に取り入れられました。

アフリカの現地で育てられていた小ぶりの激辛唐辛子(Capsicum frutescens)は、ポルトガル人にとって非常に新鮮で刺激的なスパイスだったため、「piri-piri」という名前でそのまま定着したのです。

ポルトガルの「piri-piri」文化

今日のポルトガルでは、「molho piri-piri(ピリピリソース)」としてレストランやどのスーパーでも見かける定番の調味料となっています。オリーブオイルに刻んだ唐辛子を漬けた自家製ソースや、瓶詰めのピリピリソースは、グリルチキンや魚料理によく合う万能調味料のように扱われている印象があります。

また、アフリカ系ポルトガル料理「ピリピリチキン(Peri-Peri Chicken)」も、このソースをベースにしたレシピです。

日本語の「ぴりぴり」との違い

日本語の「ぴりぴり」は、古くから存在する擬音語で、痛みや緊張などの感覚を表すために使われます。語源は諸説ありますが、唐辛子とは直接関係がないとされています。とはいえ、「ぴりぴりする辛さ」という表現もあるように、「刺激」を伝える音感には共通点があります。

この音の類似が、日本人にとって「piri-piri」という言葉をどこか親しみやすく感じさせているのかもしれません。

江戸時代に唐辛子はあった?

江戸時代にはすでに唐辛子が日本に伝わっており、16世紀後半にはポルトガル商人や宣教師の交流を通じて、南蛮貿易の一環として日本に伝来したと考えられています。「南蛮胡椒」と呼ばれ、薬用や香辛料として使用されていました。

つまり、唐辛子もピリピリも、アフリカからポルトガルへ、そして日本へというグローバルなスパイスの旅をしていたというわけです。

 

辛いもの好きの私が気になった「piri-piri」は、ただのホットソースの名前ではなく、植民地時代の記憶、アフリカの暮らし、日本語の音感まで巻き込んだ“言葉の旅”の結晶でした。

これからも、ふとした一言の中にある文化や歴史を拾い上げて、「言葉を食べる」「文化を味わう」そんな記事をお届けしていきたいと思います。
読んでくださりありがとうございました。

では次回アイでしたー($・・)/~~~

「行方不明の兵士」と記憶されるロン・アラッド少佐


― 過去の拉致事件が、今に投げかける問い ―

こんにちは、アイです。🫐

前回の記事では、2024年現在のガザ地区における人質問題とその背景を紹介しました。
今回は、その“今”と深く重なるような“過去”の一件――
1986年にレバノン上空で消息を絶ったイスラエル空軍の戦闘航法士、**ロン・アラッド少佐(Ron Arad)**の失踪事件について書いてみたいと思います。

それは、戦争と交渉の狭間で揺れ動く人質問題、
そして「兵士を見捨てない」という国家と市民の価値観にまつわる、
長年イスラエル社会に深い問いを投げかけてきた物語です。


■ ロン・アラッドという人物

  • 氏名:ロン・アラッド(Ron Arad)

  • 生年:1958年(マグディエル/イスラエル中部)

  • 家族:妻・タミーと当時1歳の娘ユヴァル

  • 所属イスラエル空軍第69飛行隊(F-4ファントム戦闘機ナビゲーター)

  • 階級:失踪当時は大尉(後に少佐として追悼)


■ 失踪の経緯(1986年10月16日)

アラッド少佐は、PLO拠点への爆撃作戦「ベイト・アバ12」に参加中、
搭乗機が爆弾の信管不良で損傷を受け、レバノン南部シドン近郊
に不時着脱出します。

パイロットのアビラムはイスラエル軍に救出されましたが、
アラッドはレバノンシーア派民兵組織「アマル(Amal)」に拘束され、その後の行方が分からなくなりました。

📍 地図ポイント①:レバノン南部・シドン(Sidon)周辺
→ 失踪地点。アマルの勢力圏内。


■ 拘束からの沈黙(1986–1988)

拘束直後の1986〜1987年には、3通の手紙と写真1枚イスラエル側に届き、アラッドの生存が確認されました。
しかし、国際赤十字による面会は一切拒否され、1987年9月を最後に完全に消息を絶ちます。

1988年には、アマル幹部ムスタファ・ディラーニの証言により、アラッドは「ヒズボラ」または「イラン」に引き渡された可能性が浮上。
それ以降、彼の消息は長い間イスラエルの国家的ミステリーとなっていきました。


■ 複雑化する情報と外交(1988年以降)

イスラエルは、消息をつかむため、アマル・ヒズボラ幹部の誘拐など外交・諜報作戦を展開。
しかし交渉は進展せず、2004年に当該幹部たちは捕虜交換で釈放されました。

1993年には「イランのイスファハーンの刑務所にアラッドがいた」という亡命者の証言もあり、
イスラエル国内では「まだ生きている」という希望と、「すでに亡くなったのでは」という諦念が交錯します。

📍 地図ポイント②:イラン中部・イスファハーン(Isfahan)
→ 複数の証言で“収容先”として言及された都市。


■ アラッドの“最後”とされる時期(推定:1988年)

公式な証拠はないものの、イスラエル国防軍(IDF)は次のように結論づけています:

  • アラッドは1988年5月前後、脱走を試みた際に死亡した可能性が高い

  • 遺体は処分されたか、行方が分からなくなっている

  • 以降の証言や返還された物品(手帳・写真・動画など)はすべて1986–1988年に撮影されたものと推定

📍 地図ポイント③:ベカー高原周辺(レバノン東部)
→ 一時的な拘束地とみられる。

以下の図では、1986年から1993年にかけての主な出来事が、地理的にどのように展開されたかを整理しています。
シドンでの作戦、レバノンでの拘束、そしてイランでの証言まで——「ロン・アラッド事件」が国境を超えた複雑な構図を持っていたことがわかります。
画像をアップロードしました


■ 「国家の痛み」としての記憶

ロン・アラッドはイスラエルにとって、「行方不明兵士」の象徴であり続けました。

  • 軍の行事では「Missing Man Formation(欠員飛行)」で追悼

  • 彼の名を冠した公園・通り・学校が全国に存在

  • 映画・ドキュメンタリー・楽曲(“Ron, we won’t leave you behind”)などで語られ続けています

その名は、単なる軍事事件の記録にとどまらず、
国家として「誰も置き去りにしない」という信念の根拠として、
今なお深く社会に根づいているのです。


■ 今を照らす過去の問い

2024年、ガザ地区では今まさに人質問題が深刻化し、
交渉と軍事の狭間で命が失われ続けています。

人質を救うために必要なものは、軍事行動なのか、外交なのか。
「助けたい」という言葉だけでは届かない現実のなかで、
かつてのロン・アラッドの事例は、今の私たちに問いを投げかけているようにも思えます。


■ おわりに

このブログでは、こうした「今」と「かつて」の交差点にあるテーマを、できる限り丁寧に追いかけていきたいと思っています。

遠い国で起きた出来事かもしれません。
でもそこには、**私たちの暮らしと遠くない「命の選択」**があります。

次回以降は、引き続きイスラエルの安全保障や、ガザ以外の地域(レバノンヨルダン川西岸、国内の分断問題)などについても、視野を広げながら考えていければと思います。

読んでくださってありがとうございました。
アイでした($・・)/~~~
ご意見・ご感想も、お気軽にコメント欄で教えていただけたら嬉しいです!

 

 

イスラエル南部の人道危機、人質と交渉のゆくえ【週次まとめ】(4/20)


こんにちは、アイです🫐
今回は、私にとってゆかりのある場所・イスラエルに関する話題を、久しぶりに取り上げてみたいと思います。
日々さまざまな動きがある中で、いま改めて注目しておきたいと感じたテーマをまとめました。

ガザ戦線と人質交渉の現在(2024年4月20日時点)

イスラエル南部戦線では、ガザ地区における戦闘が続いており、IDF(イスラエル国防軍)は地上・空中の両面から攻撃を強化しています。ラファ地区(ガザ南部)はすでに包囲され、住民の約30%が「安全地帯」として指定されている一方で、ガザ全域に避難勧告が出されるなど、深刻な人道状況が広がっています。

さらに、ハマスへの圧力として、イスラエルは7週間にわたり人道支援の搬入を停止しています。これに対し、国連や複数のNGOは「ガザが大量虐殺の墓場と化している」と警告しており、5万人を超える死者と物資不足が報告されています。ガザ市民の被害が日々拡大している状況です。

一方で、イスラエル側でも人質問題を巡る交渉が再始動しています。イスラエルが提示した新たな案には、45日間の停戦、人質10人の解放、ハマス武装解除が含まれていますが、ハマスは「全面停戦と軍の完全撤退がなければ不可」として拒否。交渉は難航を極めています。

現在ガザには依然として59人のイスラエル人人質が拘束されており、35人の死亡が確認済み。生存が見込まれているのはおよそ21人とされていますが、この数字も刻一刻と変化しています。

ここで問題となっているのが、イスラエル軍自身の作戦により、自国人の人質が巻き込まれて死亡している可能性です。IDFの攻撃によって人質が直接的に命を落としたケースや、ハマス兵が軍の接近により人質を殺害した例も報告されています。

この現実は、「人質を救うにはまず戦争に勝たねばならない」としてきたネタニヤフ政権の方針を大きく揺るがしています。国内では「むしろ交渉と平和的な解決が唯一の道ではないか」という世論が高まりつつあります。


今後の構想と国際関係

イスラエル内部では、「ガザ住民の自主的移住」など将来的な選択肢も一部で語られています。一方、米国ではトランプ政権がM16ライフルの大量供給(2万丁以上)を承認。国連はこれに対して「国際犯罪の可能性がある」と警告を発しています。

イスラエル政府はこれを否定しており、今後は外交レベルでの検証が行われる見込みです。

このような中、人質の家族を中心とした市民の抗議行動も再燃しており、「政治や戦略よりも命を優先してほしい」という声が国民の間に広がっています。

今回は、ガザ地区と人質問題に焦点を当ててお伝えしました。
現地では依然として厳しい人道状況が続いており、報道だけでは見えにくい現場の複雑さや、政治・軍事の思惑の間で翻弄される人々の存在が深く影を落としています。

こうした状況はガザに限ったことではなく、イスラエル周辺諸国・地域との関係において、北部のヒズボラレバノン)との緊張、ヨルダン川西岸での不安定な治安、そして国内社会の分断など、広範な課題が横たわっています。安全保障というと大きな言葉ですが、それは単なる軍事的な問題だけではなく、人々の暮らしや意識のあり方にも直結しています。

次回以降は、そうした全体像にも少しずつ触れていく予定です。
特に、過去に話題となった「ロン・アラッド中尉の拉致事件」などを通して、人質というテーマがイスラエル社会にどのような記憶を残しているか、そしてそれが今の出来事とどうつながっているかも探っていければと思っています。

このブログでは、私自身が現地で感じたことや、今遠くから見つめ直している視点も交えながら、できる限り「伝わるかたち」でお届けしていければと考えています。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
ご意見・ご感想などありましたら、ぜひコメントで教えてください。

アイでした($・・)/~~~

ヨーロッパ生活はじめてみた:ポルトガルの“暮らしやすさ”を日本人目線でレビュー

ども!アイです🫐
日本人にとって住みやすい国?ポルトガルのリアルを体験ベースで紹介

ポルトガルに移住して約2か月。まだ生活は始まったばかりですが、この“初期だからこそ見える視点”で、日本人目線で感じた住みやすさについてまとめてみました。長く住んでみるとまた印象は変わるかもしれませんが、今回はその「リアルな今」の声としてお届けします。


1. 治安と人のやさしさ

ポルトガル=安全」という印象はよく聞きますが、実際に住んでみて納得しました。昼夜を問わず出歩くこともありますが、危険を感じる場面は少なく、ホームレスが多いエリアなどでも大きな不安を感じたことはありません。現地の方が公園の隣のベンチなどを自然に使っていて、風景の一部としてなじんでいるためかもしれません。

とはいえ、完全に無警戒で良いというわけではなく、実際に注意が必要だと感じたこともあります。移住前の下見で訪れていたとき、私自身、ぼんやり歩いていたところを男性にしつこく声をかけられ、距離を詰めて付きまとわれたことがありました。大ごとにはなりませんでしたが、やはり特に夜間や人通りの少ない場所では注意が必要です。

それでも、ヨーロッパ諸国と比べて治安の良さは際立っており、落ち着いた雰囲気の中で過ごせています。

そして、何より人の親切さが印象的です。言葉が通じなくても、伝えようとする姿勢や助けてくれる行動に何度も救われました。たとえば、バスの乗り方がわからず迷っていたとき、運転手さんが笑顔で説明してくれたり、通りすがりのおばちゃんが道案内をしてくれたこともありました。


2. 食文化のなじみやすさ

魚介類が豊富で、日本人にとってなじみやすいメニューが多いのがポルトガルの食文化の特徴です。バカリャウ(塩漬け干しダラ)やサーディン(イワシ)、タコ、貝類、エビなど、和食の素材としても親しまれている食材が手軽に手に入ります。

私自身、普段の食事で魚介を多用するので、スーパーでの買い物にもすぐに慣れました。煮物やスープなど、調理法も工夫しやすく、食材の質の良さも魅力です。

また、ポルトガルと日本の歴史的なつながりを感じる食べ物もあります。エッグタルト(パステル・デ・ナタ)やカステラは、日葡交流の名残として日本人にもなじみ深い存在。地元のパティスリーでも頻繁に見かけることがあり、歴史を実感する機会が多いのが嬉しいポイントです。江戸時代に日本と唯一正式に交流していた国であることを思い出すたびに、文化の交差点に立っているような感覚を覚えます。私はこの点をとても気に入っています。

一方で注意点もあります。お米は長粒米が主流で、もちもちの日本米は限られた店にしか置いてありません。私は日本米に近い短粒種を扱うスーパーをいくつか見つけ、日常用にはそこを利用しています。

ai-is-life.hatenablog.com


3. 気候と自然環境の快適さ

ポルトガルは温暖な地中海性気候で、晴れの日が多く湿度も低いため、非常に過ごしやすいです。実際に住んでみて「洗濯が乾きやすい」「部屋の中がカラッとしている」など、小さなところでも快適さを感じています。

ただし、今の季節(春)に関しては、かなり雨が多いと感じます。実際、日照時間は長くなってきているものの、急な天候の変化や連日の雨に悩まされる日もあります。移住前の冬の下見のときにも同じように雨が多く、天気に関しては「通年で快適」というより、「季節によって差がある」という印象を持っています。

春〜夏にかけては日照時間が非常に長く、4月中旬現在で日没は20:00過ぎ。夕方まで明るいため、生活の時間にゆとりが生まれ、外出の選択肢も増えます。

また、海と街の距離が近く、日常の中に自然がある暮らしが可能です。週末には海沿いを散歩したり、緑あふれる公園でピクニックをしたりと、都市生活と自然のバランスが絶妙です。

街を歩けば、ちょっとした場所にも歴史や文化の気配があり、日常の中に「旅のような瞬間」が散りばめられています。


4. ビザ制度と物価の現実

ポルトガルは移住を視野に入れる日本人にとって、比較的ハードルの低い国です。たとえば、海外収入があれば取得可能な「D7ビザ」、リモートワーカー向けの「デジタルノマドビザ」など、個人の事情に応じた選択肢が用意されています。

行政サービスも多言語化が進みつつあるとはいえ、実際には英語が通じない場面も多く、対応に時間がかかることがしばしばあります。オンライン手続きが進んでいるとされていても、結局現地で対応しないと完了しないものも多く、私自身、住民登録や銀行口座開設などの作業にかなりの時間を要しました。おそらく私がまだ十分に言語を使いこなせていないという要因もありますが、「手続きには根気と余裕が必要」と語る外国人の声はよく耳にします。

また、移民を多く受け入れてきた国であるため、多様な人が生活しており、「外国人」という目で見られることはほとんどありません。とはいえ、移民に対する不満や反発が一部にあるのも現実なので、文化やマナーを学ぶ意識は欠かせないと感じています。

物価については、「ヨーロッパの中では安い」と言われる通り、住居費や外食費などは他国より比較的控えめですが、近年は値上がり傾向もあります。実際、日用品や家賃は以前よりも高騰しており、生活設計には工夫が必要です。


まとめ:今だから見える「住みやすさ」

ポルトガルは、日本人にとって「暮らしてみたいヨーロッパ」のひとつとして、現地に暮らしてみてわかる魅力が詰まっています。

  • 治安が比較的良好で、人が親切

  • 魚介中心の食文化で、日本人にもなじみやすい

  • 自然との距離が近く、リズムある生活ができる

  • ビザ制度が柔軟で、移住や長期滞在がしやすい

まだ生活は始まったばかりですが、この“初期だからこそ見えるリアルな視点”として記録に残しました。

半年、1年と過ごす中でまた印象は変わっていくと思います。そのときには改めて、アップデート版の記事を書いてみたいと思います。

この記事が、ポルトガル移住や暮らしに関心のある方の参考になれば嬉しいです。
ありがとうございました。アイでした($・・)/~~~🫐

“YES”って、国によってこんなに違う?

※ちょっと長いですが、ことば好きな方にぜひ読んでほしい内容です🫐

世界の"YES"を比べてみた:「大丈夫」「OK」「괜찮아」「Está bem」「סבבה」に見る文化のちがい

ども、アイです🫐

ポルトガルに来てから、あらためて「ことば」の面白さを感じることが増えました。なかでも、気になったのが「YES」という返答。日本語の「大丈夫」を始めとして、英語の「OK」、韓国語の「괜찮아(ケンチャナ)」、ポルトガル語の「Está bem(エスタ・ベン)」、ヘブライ語の「סבבה(サババ)」──これらはすべて、場面によっては同じように訳されることばですが、実際には込められている意味や感情、文化的背景がまったく違うのです。

今回は、そんな“YES”を5か国語で比較しながら、それぞれの言葉にどんな空気や文化が詰まっているのか、そしてどうつながり、どう違っているのかを見ていきたいと思います。


「YES」に込められた文化:5つの言葉の比較

それぞれの言語で「YES」として機能する言葉には、その社会や文化の空気感が色濃く反映されています。まずは個別に見ていき、最後にそれらを横断的に比較してみましょう。


ポルトガル語:「Está bem」── 社会にしみ込んだ、リズムあるYES

ポルトガルに来てすぐ、最もよく聞いたのが「Está bem」でした。友達も、家族も、店員さんも、誰もがこの言葉を使っていて、「これは何だろう?」と不思議に思ったのを覚えています。

「いいよ」「了解」「OK」など、軽やかに肯定するこの言葉は、会話のリズムの中で自然に使われ、まさにポルトガル文化にしみ込んでいる印象です。

短縮形(“'Tá bem”や“Tá bom”など)も多く、よりカジュアルなトーンで頻繁に耳にします。役所や銀行のようなフォーマルな場面でも「Está bem」は使われますが、親しい関係の中では“Tá”と省略され、テンポよくやり取りされるのが特徴です。

また、「Não faz mal(気にしないで、大丈夫)」との使い分けも見られます。Está bemが「了解・OK」に近いのに対し、Não faz malは「問題ない、気にしないで」というニュアンスが強く、相手の失敗や誤解を受け止めるような優しさを含みます。

こうした微細な使い分けにも、ポルトガル語話者の気配りや軽やかさがにじんでいるように思います。


ヘブライ語:「סבבה」── 明るさと“まぁまぁ”のあいだ

「סבבה(サババ)」は、もともとはアラビア語起源の言葉で、イスラエルでは若者言葉として使われはじめましたが、今では幅広い世代で日常的に使われています。

「最高!」「いいね!」という明るい意味合いを持ちながら、実は「まぁまぁ」「悪くないよ」といった微妙なニュアンスにも対応できる、とても柔軟な言葉です。

また、強調形やバリエーションも豊富で:

  • סבבה לגמרי(サババ・レガマーリ)=完全にOK、めちゃくちゃいい

  • סבבה כזה(サババ・カゼ)=まぁまぁOK、まあそんな感じ

このように、トーンや文脈、表情とセットで使われることで、סבבהの意味は大きく変わってきます。

軽やかさと曖昧さが共存するこの言葉は、イスラエル社会の“フレキシブルさ”や“ざっくばらんさ”を映し出しているようでもあります。


日本語:「大丈夫」── 気づかれない優しさと、自分を守る言葉

「大丈夫?」と聞かれて「うん、大丈夫」と答える。でも、実際は全然大丈夫じゃない。そんな経験、ありませんか?

「大丈夫」は、相手を安心させたり、自分を守ったりするための言葉です。時に自分の感情を押し込めてでも「大丈夫」と言ってしまう。このあたりの感覚は、韓国語の「괜찮아」とも重なる部分があります。

「本当は大丈夫じゃないのに、大丈夫って言う」── これは日本人にとって、ある種の日常です。自己開示が得意ではない文化のなかで、「大丈夫」はときに感情をふせぐ“仮面”のような役割も果たします。

一方で、相手を励ますときにも使われ、「大丈夫、大丈夫!」と声をかけることで、共にいるという気持ちを表現する点は、ヘブライ語の「סבבה」にも似た雰囲気があります。


英語:「OK」── 許可と同意、でもトーンがすべてを変える

「OK」はとてもシンプルな表現ですが、その実、声のトーンや文脈でニュアンスが大きく変わる点では、ポルトガル語の「Está bem」やヘブライ語の「סבבה」に通じるものがあります。

たとえば、明るく「OK!」と言えば前向きな同意。引き伸ばして「Oooookay…」と言えば納得してない感情がにじみます。これは「괜찮아」が持つ感情の揺れや、表情・声色で伝わるニュアンスと非常に近い感覚です。

アメリカ英語では「OK」が最も基本的な肯定ですが、イギリス英語では「Quite all right」や「No worries」が使われることもあり、同じ英語でも地域によってトーンや言い回しが異なります。

英語圏では絵文字を添えてOKのトーンを補足する文化もあり、LINEなどのやりとりで見られる韓国やヘブライ語の感覚ともリンクしています。


韓国語:「괜찮아」── 共感と慰めのYES

「괜찮아」は、単なる返答というよりも、相手に寄り添う言葉です。誰かがつらいとき、失敗したとき、そっと差し出される「괜찮아」には、相手を受け止めるやさしさがあります。

これは、日本語の「大丈夫」と重なる一方で、より「感情の共鳴」に重きを置く点が特徴です。また、声のトーンや文脈で意味が変わる点では、英語の「OK」やヘブライ語の「סבבה」と同様、ことばが“生きている”感覚を持ちます。

特にK-POPや韓国ドラマでは、「괜찮아」がとても頻繁に使われます。BTSの「봄날(Spring Day)」やSEVENTEENの「웃음꽃」などの楽曲では、「괜찮아」が痛みと優しさを同時に包み込むような形で登場し、聞き手の感情に強く訴えかけてきます。

こうした音楽文化に支えられて、「괜찮아」は単なるYESではなく、癒しの言葉として浸透しているのだと感じます


比べて見える、“YES”という名の多様性

ここまで見てきた5つの言葉には、いくつかの共通点と対照的な違いが見えてきます。

  • 日本語と韓国語は、感情を内に秘める「自己制御」と「他者配慮」の文化がにじむ

  • 英語とポルトガル語は、比較的行動や同意を明確にする言語だが、トーンの影響が大きい

  • ヘブライ語は、感情表現が豊かでありながら、“YES”のグラデーションが広い

言語によって、「YES」は単なる肯定だけではなく、その背後にある社会的な価値観や人間関係の距離感を映し出しているのです。


 

比較表:各言語のYESをざっくり整理してみる!

言語 表現 主な意味・ニュアンス 文化的特徴
ポルトガル語 Está bem OK、いいよ、気にしないで 軽やかで頻出/会話のリズムを作る
ヘブライ語 סבבה OK、まぁまぁ、いいよ 明るさと曖昧さが共存/ニュアンスが広い
日本語 大丈夫 平気、問題ない、安心して 相手を気遣う/本音を隠すことも
英語 OK 承認、同意、了解 行動の可否・状況確認/トーンで変化
韓国語 괜찮아 大丈夫、気にしないで、君は悪くないよ 共感・慰め/感情の受け止めと自己制御

おわりに:あなたのYESには、何が込められていますか?

世界中に、これだけ多様な“YES”が存在するのは不思議なことです。 それぞれの言葉に文化の違いがあるのはもちろんですが、共通しているのは、どの言語にも「多くの場面で万能的に使えるYES」があるという点です。

言語というより、人間の文化そのものが、こうした「うなずき」「肯定」「受け止め」の必要性を自然に生み出しているのかもしれません。

あなたが「大丈夫」「OK」「괜찮아」「Está bem」「סבבה」と言うとき、そこにはどんな気持ちが含まれていますか?

そんなことを考えるきっかけになれば嬉しいです。

読んでくださって、ありがとうございました!

また次回の記事でお会いしましょう。

──アイでした ($・・)/~~~

イラク出身ユダヤ人の家族が語った記憶:命がけでイスラエルへ渡った話

イラク出身ユダヤ人の親戚が語った移住の記録

――命がけでイスラエルへ渡った体験

イスラエルを離れる少し前、私はある親戚を訪ねました。
彼は95歳を超える高齢で、母方の祖母の兄にあたる人物です。

これまでにも何度か会っていたものの、話す内容はたいてい日常のことばかりで、彼の過去について詳しく聞いたことはありませんでした。
ところがその日、彼はぽつぽつと、かつての出来事を語り始めました。

その内容は、彼自身と家族がイラクからイスラエルへ渡るまでのこと。
当時の社会状況、体験した差別、密かな移動手段。
今回は、その証言を記録としてまとめておきます。


イラクでの生活と社会状況

彼の家族はイラクの**キルクーク(קרקוק / Kirkuk)**出身です。

当時のイラクは物資も豊富で、全体としては豊かな国だったといいます。

しかし、政府の政策はアラブ人に有利に働くもので、ユダヤ人は冷遇されていたとのこと。
職を見つけるにも苦労があり、日常生活の中で多くの差別を受けていたと語っていました。

彼の父は、お茶や砂糖を扱う商店など、複数の職場を転々としていたそうです。


「シオンの囚人」としての収容

彼ら家族がイスラエルへの移住を考え始めた時、
彼の父はイラク政府に拘束され、**「シオンの囚人(Asir Tzion)」**として長期間収容されました。

「シオンの囚人」とは、政治的あるいは宗教的な理由から、
ユダヤ人としてのアイデンティティシオニズムユダヤ人がイスラエルに住む権利)を支持したことで投獄された人々のことです。

犯罪ではなく、信仰や自由への願いそのものが「罪」とされる時代背景がありました。


妹(筆者の祖母)の体験と地下組織の存在

この親戚の妹、つまり筆者の祖母は、彼よりも早くイスラエルに渡っています。

彼の話では、祖母は当時、学校でユダヤ人という理由だけで、アラブ系の学生から差別的な扱いを受けていたそうです。

彼女の渡航は、当時活動していた**「マフテル(地下組織)」**の支援によるものでした。

この地下組織は、当局に許されない形で、
ユダヤ人の移住、教育、信仰の自由などを守ろうとしていた非合法ネットワークです。


本人の移動経路

証言者本人もまた、兄弟とともに密かにイスラエルを目指しました。
国境を越えるため、ヨルダン経由の安価なバスを利用したそうです。

そのバスには座席がなく、乗客はぎゅうぎゅうに詰め込まれていたとのこと。
彼自身はあまり記憶にないそうですが、シリアを経由した可能性もあると話していました。


記憶とメディアへの距離

少し前、イスラエルの国営放送では、イラクユダヤ人に関するドキュメンタリー番組が放送されていました。

それを見たかと彼に尋ねたところ、返ってきた言葉はこうでした。
「俺は実際にそこにいた。だからテレビで見る必要はない」

この言葉には、記録と体験のあいだにある「重みの差」が含まれているように感じました。
私は、当時のことを語れる人がどれだけいるのだろう、と考えることがあります。今回のように直接聞けたことを、記録として残しておきたいと思いました。
移住や片付けが少し落ち着いた今、そのドキュメンタリーを見ます。
それについても、いずれ記事にできればと考えています。若い世代にとっては、遠くても大切な記憶になると思っています。


最後に:記録の目的について

今回まとめた内容は、あくまで私たち家族の中で語られた記憶です。
史実としての正確性を断言するものではありません。

けれど、直接話を聞けた今、
こうして記録として残しておくことには意味があると感じました。

中東の歴史やユダヤ系移民の流れを理解する上で、個々の経験がつなぐものもあるはずです。
そしてなにより、次の世代へ伝えていくべきひとつの物語として、ここに記しておきたいと思います。

ポルトガルに来て“お米”に困った話。ごはんで感じた文化の違い

ども!アイです🫐

海外で暮らしている日本人にとって、**“お米問題”**は想像以上に深刻です。
どんなにおかずがおいしくても、ごはんがパサパサだと満足できない…それが日本人。

私がポルトガルに来て最初に直面したのも、実はこの“ごはんの違和感”でした。


🍚 お米がおいしくない…!最初に感じた違和感

我が家では、日本から使っている炊飯器を、イスラエルからの引っ越しでも継続して使っています。

日本のお米って、炊くとふっくらして一粒一粒が立っていて、甘みがあって――
それ自体がおいしさを持っている気がしますよね。

でも、ポルトガルで現地のお米を同じ炊飯器で炊いてみると…
「ん?なんか、うれしくない味だな」と感じることが多くて。

もっちりと炊けても、お米自体に甘みがなかったり、雑味があったり。
そのまま白ごはんとしては、あまり楽しめないのが正直な感想でした。


🇵🇹 実はちがう!ポルトガルのお米文化

これは当然なのかもしれません。
ポルトガルでは、炊飯器よりも“鍋で炊く”のが一般的だそうです(近所のお店情報!)

また、ポルトガルでも「白米」を食べる文化はあるようですが――
炊くときに塩・こしょう・オリーブオイル・ベイリーフを加えるのが一般的。

このやり方、イスラエルの炊き方にもすごく似ているなと思いました。
実際に試してみたら、風味もよくておいしかったんです。

でもやっぱり、“お米自体のおいしさ”という点では、ちょっと違うんですよね。


🥢 日本式に近づけるためにやってみたこと

いろんな会社のお米を試しました。
もともと蒸されているパック米も含めて、いろいろチャレンジ。

そしてアジアン食品店にも足を運びました。
ただ、そこでは日本米が20キロの大容量パックで売られていて…
1キロ単位に慣れている私たちには、なかなかのプレッシャー(笑)
値段もなかなか強気ですしね。


🏠 お米ひとつで暮らしが変わる

最終的には「これならまぁいいよね」と思えるブランドに落ち着いて、
ちょっとずつお米ライフを楽しんでいます。

日本に帰ったときは、お米をスーツケースに詰めて帰ろうかな…なんて思ったり(笑)

「ごはんのお供」という言葉があるように、
日本ではごはんが“食卓の中心”として存在していますよね。

でもポルトガルでは、お米はパンやパスタ、ジャガイモと並ぶ炭水化物のひとつ。
メインではなく、あくまで引き立て役。

それもまた文化の違いであり、おもしろさだなと感じます。


小さな違和感から、文化の奥深さを知るきっかけになるのも、海外生活の魅力かもしれません🫐

今回も読んでいただき、ありがとうございました!
では次回!アイでした($・・)/~~~